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水戸地方裁判所 昭和33年(わ)187号 判決

被告人 三浦昭夫こと大西克己

昭二・一一・一三生 無職

主文

被告人を死刑に処する。

押収にかかるガラス小壜入の白粉一個(昭和三十四年押第二十一号の九)はこれを没収する。

理由

(罪となるべき事実)

一、被告人は、大西シズエとその内縁の夫であつた小柳雅太郎との間の子であるが、出生前に父母が離別したため、シズエの義母であつた大西クマ(戸籍上シズエはクマの私生子女となつている)とその夫福松との間の長男として戸籍に届け出られ、昭和一〇年頃シズエが山村房一と婚姻してからはもつぱら右福松夫妻の許で実親の愛を知らないまま不遇に成長した。そして昭和十七年三月下関市立下関高等小学校高等科を卒業後は鉄工所の養成工をしたり貨物自動車の運転助手などをしているうちに終戦を迎え、その頃に至つて、もの心がついて以来姉と信じてきた山村シズエが自分の実母であり、まだ見ぬ父は前記小柳という者であることをはじめて知つたのであつた。その後昭和二十二年一月十一日福岡地方裁判所飯塚支部において住居侵入及び強盗罪によつて懲役七年、同月二十九日小倉区裁判所において窃盗罪によつて懲役一年六月の各判決を受けその執行として昭和二十六年五月二十日まで熊本刑務所に服役し、同日住居侵入、強盗罪の刑について仮釈放になつてからは、下関市内の三友軒製パン所で自動三輪車の運転手をしたり、門司市内の大野運送有限会社で貨物自動車の運転手などをしていたものであるが、昭和二十八年三月頃被告人がさきに三友軒製パン所で稼動していた頃同所で知り合つた中野マサ子と結婚し(婚姻届は同年四月六日付)その頃から福松夫妻とともに下関市幡生町所在の山の田市営住宅三号に同居するようになつた。ところが、かねてから大変酒好きの福松は少しも家計をかえりみないで毎日大酒にひたつているうえ、福松夫妻とマサ子との折合が非常に悪く、クマは近隣者に対しマサ子の悪口をいいふらし家庭においては同女につらくあたるばかりか、被告人に対しては福松とともにことごとにマサ子をけなして同女を離別すべきことを強いるため、マサ子も自然家庭から離れ勝ちになりひいては被告人との夫婦間の気持も次第に疎隔するようになつて、とかく家庭内に風波が絶えなかつた。被告人は、これを深く苦慮して懊悩の心を自棄の深酒で紛らす日が多くなつたのであるが、昭和二十九年四月頃北九州酒類販売株式会社戸畑出張所の門司駐在員となつて、門司地区の得意先である酒類販売業者に対し大日本精糖門司工場から出荷する焼酎の配達並びにその代金集金等の業務に従事していたところから、昭和三十年三月頃福松夫妻の要求でやむなく自宅に風呂場を新築した際に、右会社のため集金保管中の金を約二万円費消したのを契機として、その後はしばしば福松夫妻の酒代や、一家の生活費又は自分の遊興費等にこれを充てた結果、同年五月下旬頃までの間に約二十万円を費消するに至り、その家庭は次第に行き詰まり心の苦しみは一そう深まつて行つた。そこでかような窮状を何とか打開しなければならぬと考えた被告人は、同年五月二十四、五日頃から同月末に至る間に福松夫妻に対して、節酒によつて生活の建て直しを図り、併せてマサ子との折合も改善されたい趣旨を懇請し或は前記会社の金の使込みを打ち明けて一家建て直しの決意を促したのであつたが、同夫妻からすげなくあしらわれたばかりか、かえつて「お前がマサ子と別れられなければ、お前の前科をばらして別れさせてやる」などと散々ののしられるに及んで、これまで口答え一つできないままひたすら福松夫妻に従順に仕えてきた被告人も、同夫妻が従前から被告人の苦衷を少しも察しないことを痛感し、かつは自分のみじめだつた生い立ちや不遇な境遇などをあれこれと思い合わせ、一時はいつそ会社の金をできるだけ多く集めたうえ当時姙娠で入院中のマサ子が帰るのを待つて一緒に福松夫妻の許から逃亡しようとも考えたが、余りにも頑迷な福松夫妻の態度に救われることの無い家庭であるとの絶望感から同夫妻を殺害して自分も死ぬ以外に全く途はないと思い込むようになり、臆する自分を、その実行に踏み切るようみずから仕向けていた。そして昭和三十年六月一日夕刻帰宅して福松夫妻と飲酒した際に、最後の気持でまたも前同様生活の建て直しや家庭内の和合について懇願したが福松の怒りを招き、同人との間で口論やつかみ合いの喧嘩にまで及んだところから、被告人は遂に福松夫妻を殺害したうえ自分も直ちに追死すべきことを決意し、同日午後八時頃福松夫妻が前記自宅の東南側の四畳半の部屋に臥床した後、その西隣り六畳の部屋においてアルマイト製のボールにオレンヂジュース二、三本分を注ぎ、これに当日勤務先から持ち帰つたところの、かねて被告人が自動車修理用に買つておいた青酸ナトリウム入りの瓶(昭和三十四年押第二十一号の二)から青酸ナトリウム一つまみを取り出して投入溶解し、更にバナナと枇杷の輪切りを浮かせたうえ、これを右四畳半の部屋に運び同所において右溶液等を三個のガラスコップ(前同押号の四十)にそれぞれ注ぎ、先刻の無礼を詑びつつ福松夫妻に右コップ一個宛を順次手渡して飲用を勧め、そして各自に右溶液を飲下させ、よつて即時同所において大西クマ(当時七十三年)及び同福松(当時六十六年)をして青酸塩類による中毒のため死亡するに至らしめ、以つて殺害の目的を遂げたものである。

二、被告人は右大西福松夫妻を殺害した際一旦は服毒を計つたが福松の苦悶する状況をまのあたりにしてその余りのおそろしさにおののき、直ちに追死することができずに終り、一度生残るや以後は全く生の執着に捕われて、当時集金保管中の前記会社の金約九十五万円をかい帯して同夜下関市から逃亡し、数日後からは大分県別府市内に身をひそめ藤田明と偽名して、同市内でバーや食料品店を営んでいた。ところが昭和三十一年一月十日頃酔余軽微な傷害事件を惹起したためその頃別府警察署において逮捕され取調を受けた際、自分の氏名本籍を偽つたところから、警察において右の本籍照会に及べばその虚構なことがすぐ発覚し、それがひいては下関市における前記福松夫妻殺害事件の発覚するいとぐちになるのではないかと深く危惧するようになつた、そこで被告人は、同月下旬頃当時の売上金約二十万円を持つて別府市内から逃亡し、同月二十四、五日頃上京したのであつたが、その後程なくして東京都墨田区寺島町一丁目五番地先の通称鳩の街通りで当時屋台店の売子をしていた三浦昭夫と知り合つた。そして同人が最近北海道から職を求めて上京したが適当な職もなく困つている旨を聞知するに及んで、同人に対し就職をあつせんすると申し込みこれに藉口して同人から戸籍抄本や転出証明書を獲得したうえ、同人を殺害して自分が三浦昭夫という人物になりすまそうと思い付いた。そこで同人に対し言葉巧みに「父が名古屋で海運業を営んでいるのだが、家で働く気はないか」と話してその歓心を買い、同人から就職する旨の承諾を得て、同年二月二日頃同人の戸籍抄本及び転出証明書各一通を入手した。そして同月四日二人で東京を出発し、同夜静岡県伊東温泉で一泊した際同人に対し「仕事以外の金儲けをしよう」と誘いかけ、翌五日同人を滋賀県下の雄琴温泉に連れ出したが、同所において更に「家の機帆船の船長がアヘンやヒロポン等の麻薬を扱つているから、それが置いてある家へ行つて麻薬を仕入れて金儲けしよう」とだましたうえ、同月七日岡山県倉敷市に到つてなおも「麻薬を仕入れて売つたのでは口銭が少い。自分がその家へ行つて話し込んでいる間に君は裏手の小屋に火をつけてくれ。自分はその火事騒ぎに乗じて麻薬を掻払つてくる」旨話して同人をだまし、同市内において右の放火に使うという口実でガソリン二罐(前同押号の四)を購入した。そして被告人はその家をはつきり調べてくるとの口実をもうけて同人一人を市内の映画館内に待たせ、その間に同人を殺害するに適当な場所をあらかじめ探索し、大よその目やすをつけたうえ、同日(昭和三十一年二月七日)午後十一時半過ぎ頃目的の家に赴くと称し同人を倉敷市向山蛭池墓地内に誘い込み、同所において相並んで腰を下しひそかに殺害の機会をうかがいながら、所持していたウイスキーの飲用を勧めたところ、折から同人が胃痛を訴えたのでこの機に乗じ殺害を決意して、たまたま所持した胃腸薬シロンの服用をすすめながら所携のガラス小瓶から在中の青酸ナトリウム(前同押号の九)小量を取り出し、これをすばやく胃腸薬シロンに混ぜて同人に手渡し、同人にこれを飲下させて、即時同所において右三浦昭夫(当時二十三年)を青酸塩類による中毒のため死亡するに至らしめ、以つて殺害の目的を遂げた後、直ちに右の犯行を隠蔽するため同所において、携えてきた前記ガソリン約八リットルを同死体にふりかけこれに点火して焼燬し、以つて死体を損壊したものである。

三、被告人は、右二の犯行後昭和三十一年二月十日頃帰京し、かねて三浦昭夫から聞き及んでいた同人の経歴に基いて同人名義の履歴書を作成し、同月十五日頃これを使用して東京都台東区稲荷町六十五番地有限会社小島紙工所に三浦昭夫の名で就職し、同年五月頃まで截断見習工として稼動していた。また同年七月七日同じく三浦昭夫の名で普通自動車の運転免許をとり、同年八月十四日から同都港区芝金杉町三丁目一番地日本建設工業株式会社に自動車運転手として勤務するようになり、更には昭和三十二年三月末から前記小島紙工所に稼動していた頃知り合つた笠原トシイと同都目黒区宮ヶ丘千八百四十六番地島田政尚方で同棲し、同年六月十四日前記三浦昭夫の本籍を右島田方と同じ所に移したうえ、同年七月十九日右笠原トシイと三浦昭夫名義で婚姻届をするなどして、戸籍上も完全に三浦昭夫になりすましたのであつた。ところが、同年十二月十八日警視庁東調布警察署において窃盗被疑者として検挙取調を受けた際写真を撮影されたり指紋を採取されたため、被告人は再び前記福松夫妻殺害事件の容疑者として身元が発覚することを危惧するあまり、これを免れるためには速かに三浦昭夫という人物から更に別人になりすます必要があると考えて他人の戸籍謄本や転出証明書等を購入しようと企図するようになつた。そこで昭和三十三年一月七日頃母の葬式のため同月二十日頃まで北海道に飛行機で帰ると偽つて妻のトシイやその兄並びに稼動先の上司同僚らをあざむき、六万円余の借金や香奠等を入手したうえ東京都内において右書類の譲渡人を物色したのであるが、翌八日たまたま台東区浅草山谷町都電泪橋停留所付近で当時日雇人夫をしていた佐藤忠と知り合い、同人からその戸籍謄本及び転出証明書を代金一万数千円で買い受けることになつた。そこで被告人は同人と相談のうえ、同人の家族に対しては、同人を被告人が勤務している岐阜の北洋産業で使いたいと偽つて家族の了解を得、同月十日同人の戸籍謄本三通及び転出証明書一通を入手した。ところがその頃になつて被告人は、右のような書類を購入しても、佐藤忠本人がこの世に生存する限りは事が露見する虞は極めて大きいことに気付き、自分が佐藤忠になりすますためには同人を殺害してしまわなければならないと決意するに至つた。そこで被告人は、同夜右佐藤を台東区浅草付近の旅館に誘つてともに一泊し、その翌十一日の朝同所において、言葉巧みに麻薬を扱つている家の裏の小屋に放火し、火事騒に乗じ麻薬を窃取して金儲をすることを話して同人をだまし、台東区内においてその放火に使う口実でモーターオイル一ガロン罐に白灯油を買い求めるなどしたうえ、汽車で同日午後一時五十二分頃茨城県水戸市に同人を誘い出すことに成功した。そして被告人はその家を調べてくるとの口実をもうけて同人一人を水戸市内の映画館内に待たせ、その間に同人を殺害するのに適当な場所を前もつて探索し、大よその目やすをつけてから市内を飲み歩き九時に迎えの船がくると同人をあざむいて、同日(昭和三十三年一月十一日)午後七時半頃同市千波町美都里橋の西方約六百四十米の所にある千波湖北側の共同便所付近に連れ出し、同便所裏側において相並んで腰を下し所持していたウイスキーを飲みながら雑談を交わしつつひそかに殺害の機会をうかがつた末、同日午後九時過ぎ頃同人が迎えの船の来ないのに不審を抱いて原動機付自転車で通りかかつた人に道を尋ねようとして立ち上つたのに驚き右佐藤を右便所裏に引き戻した際殺害を決意して同所付近において突如同人の背後から、同人が首に巻いていた日本手拭(前同押号の二十)に右手を差し込んでねじり付けて締め、同人が前のめりになつて倒れた隙にその背中を左膝でおさえ付けながら、更に同手拭をよつて綱状にし、これを同人の頸部にかけて両手で強く締め付け、即時同所において右佐藤忠(当時二十九年)をして窒息死に至らしめ、以つて殺害の目的を遂げたうえ、この犯行を隠蔽するため、直ちに右死体を前記便所西側の笹藪中に約十三米引きずり込み、更に同所において全着衣を剥ぎ取つて裸にし、所携の七徳ナイフをもつて同死体の鼻頭、左栂指及び陰茎を切り取り、顔面部に長さ最長約八・五糎以下の上下線状の切創約三十個並びに両手掌に多数の切創を加え、かつ翌々十三日午後六時半頃再び同所において右死体の頭部、顔面、頸部、両手掌及び陰部等に濃硫酸約五百グラムを浴びせかけて同部位にそれぞれ腐蝕性変化を与え、以つて死体を遺棄かつ損壊したものである。

(証拠の標目)(略)

(法律の適用)

法律に照らすと、被告人が判示大西クマ、同福松、三浦昭夫及び佐藤忠をそれぞれ殺害した所為は各刑法第百九十九条に、また三浦昭夫の死体を損壊した所為及び佐藤忠の死体を遺棄したうえ損壊した所為は各刑法第百九十条に該当するところ、以上は同法第四十五条前段の併合罪であるから、右の各殺人罪について所定刑中いずれも死刑を選択し、同法第十条第三項の規定に従い犯情の最も重いと認められる大西クマに対する殺人罪について被告人を死刑に処し、同法第四十六条第一項本文の規定に従い他の刑を科せず、押収にかかるガラス小壜入の白粉一個(昭和三十四年押第二十一号の九)は、被告人が判示二の犯行に供用したものでしかも被告人以外の者の所有に属さないから、同法第四十六条第一項但書、第十九条第一項第二号、第二項の規定に従つてこれを没収し、訴訟費用については刑事訴訟法第百八十一条第一項但書の規定を適用して被告人に負担させない。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 小倉明 高山政一 羽石大)

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